なぜ私たちは「子どもは宝」だと思うのか?子育てに疲れた日にこそ考えたい、その本当の意味。

この記事は、子育ての正解を示すものではありません。むしろ、うまくいかないことだらけの一人の父親が、それでも前を向くために見つけた光についてのお話です。

はじめに:「子どもは宝。でも、心からそう思えない日があったっていい」

「子どもは宝物だよね」

そんな言葉を聞くたびに、あなたはどんな気持ちになりますか?素直に「そうそう!」と頷ける日もあれば、「本当に…?」と心のどこかで疑問を感じてしまう日もあるのではないでしょうか。

私も17歳の息子と14歳の娘を育てる父親として、この言葉と向き合ってきました。正直に言うと、心から「宝物だ」と感じられない瞬間が、これまで何度もありました

先週の夜のことです。14歳の娘が宿題を放り出してゲームに夢中になっているのを見て、つい感情的に叱ってしまいました。その後、自分の部屋に籠もってしまった娘の背中を見ながら、「こんなときに宝物だなんて、とても思えない」と落ち込んだのです。

でも、それでいいんです。完璧な親でいる必要はないし、いつも子どもを宝物のように感じられなくても、あなたは十分に良い親なのですから。

私たちが「宝物」を見失ってしまう瞬間とは?

終わらないタスクと自分の時間

朝起きてから夜寝るまで、親の一日は文字通り息つく暇もありません。朝食の準備、保育園や学校の送り迎え、仕事、買い物、夕食作り、宿題のサポート、お風呂、寝かしつけ…。

気がつけば一日が終わり、「今日も子どもとちゃんと向き合えなかった」という罪悪感だけが残ることがありませんか?

私自身、聴覚障害があることで、息子たちとのコミュニケーションに人一倍気を遣います。相手の表情や仕草を読み取ろうと集中しているうちに疲れ切ってしまい、「ああ、今日も子どもたちの話をちゃんと聞けなかった」と自己嫌悪に陥ることがよくあります。

そんな日々の中で、「子どもは宝物」という言葉は時として重荷になってしまうのです。

「ちゃんとしなきゃ」という社会からのプレッシャー

SNSを開けば、キラキラした家族の写真。公園では、お行儀よく遊ぶ他の子どもたち。正直に言うと、よその子が礼儀正しく挨拶をしているのを見ると、「うちの子は…」と比較してしまい、落ち込むことがあります。

「良い親でなければならない」「子どもを愛さなければならない」というプレッシャーが、かえって私たちを苦しめることがあるのです。

でも、そんな見栄や嫉妬、比較する気持ちも、親として自然な感情です。それを抱く自分を責める必要はありません。

ハッとした息子の言葉。日常に隠された「宝物」の見つけ方

先月、17歳の息子が学校での出来事をポツリと話してくれたことがありました。部活の大会で思うような結果が出せず、仲間たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだと。

その時の彼の表情は、幼い頃に転んで泣いていた時とどこか似ていました。身長は私を追い越し、声変わりもとうに終わった息子が、まだあの頃の純粋な心を持っていることに、胸が熱くなったのです。

「宝物」とは、キラキラした特別な瞬間だけでなく、こうした何気ない日常の中にこそ隠れているのかもしれません。

朝、眠そうにしながらも「おはよう」と言ってくれること。一緒にテレビを見て、同じところで笑うこと。時には反抗しながらも、体調を崩した時には素直に「ありがとう」と言ってくれること。

これらすべてが、実は「宝物」なのです。ただ、忙しい日常の中で見失ってしまいがちなだけで。

2025年の今、私たちが子どもに贈れる「本当の宝物」

結果ではなく、挑戦した勇気を褒めること

現代の子どもたちは、私たちが想像する以上のプレッシャーの中で生きています。学校、習い事、友人関係…。常に何かと比較され、評価され続ける毎日です。

だからこそ、家庭では**「結果よりもプロセスを大切にする」姿勢を示してあげたい**のです。

14歳の娘が数学のテストで思うような点数が取れなかった時、つい「もっと勉強していれば…」と言いそうになった自分を止めて、「難しい問題にも最後まで取り組んだね」と声をかけました。すると、娘の表情が明るくなったのです。

「あなたはそのままで素晴らしい」と伝え続けること

子どもたちが一番欲しているのは、条件付きではない愛情です。「〇〇ができたから偉い」ではなく、「あなたがいてくれるだけで幸せ」という無条件の愛。

聴覚障害のある私にとって、息子たちとのコミュニケーションは時として困難を伴います。でも、言葉だけでなく、表情や仕草、そして何より時間を共有することで、この想いを伝え続けてきました。

完璧な親である必要はありません。ただ、子どもの存在そのものを受け入れ、愛していることを伝え続けることが、私たちにできる最高の贈り物なのです。

まとめ:完璧な宝箱じゃなくていい。いびつな箱で、一緒に宝物を探そう。

「子どもは宝」という言葉に込められた本当の意味は、子どもを完璧な存在として崇め奉ることではありません。また、私たち親が完璧である必要もありません。

大切なのは、日常の中に隠れている小さな宝物に気づき、それを一緒に大切にしていくことです。

時には感情的になってしまう日も、疲れ切って子どもと向き合えない日も、それはそれでいいのです。そんな不完璧な私たちだからこそ、子どもたちは安心して自分らしくいられるのかもしれません。

いびつで傷だらけの宝箱でも、中に入っている宝物の価値は変わりません。私たちは完璧な宝箱である必要はない。ただ、子どもたちと一緒に、毎日少しずつ宝物を見つけていけばいいのです。

明日も、きっと新しい宝物が見つかります。それは、子どもの笑顔かもしれないし、一緒に過ごす何気ない時間かもしれません。

あなたの子育ては、決して間違っていません。今日という日を、一緒に過ごせていることそのものが、既に宝物なのですから。


このテーマについて、今度インスタライブで皆さんの「子どもを宝だと感じた瞬間」のエピソードを募集して語り合いたいと思っています。きっと、たくさんの温かい物語が集まることでしょう。

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